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人間性について、ざっくりとした分類として「性善説」と「性悪説」があります。
この2つの説は、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
私も孟子の「性善説」、荀子の「性悪説」は、諸子百家に出てくるものとして、知っていました。
しかし、どんな内容と問われれば、曖昧なものです。
結構ありがちな、文字から類推される程度の認識でした。
文字からの類推というと、こんな感じです。
「性善説」は「全ての人間は善人だ。本来、悪い人なんていない。今は悪いことをしていても、信じていれば、きっと改心してくれる。」といった感じのこと。
「性悪説」は、「人間の本性は悪なのだから、放っておくと悪事を働くのが自然だ。どんなにいい人に見えても、本音は違うはず。」という感じです。
かなりネジ曲がった解釈なので同意を得られるとは思いませんが、似たような解釈を持っている人もいるのでないでしょうか。
ところが、これは誤った解釈です。
では、それぞれの説は、どんな内容なのでしょうか。
そして、タイトルにあるように、なぜ安全管理においては、「性善説」ではなく、「性悪説」がいいのでしょうか。
「性善説」 |
孟子の「性善説」とは、簡単にまとめると、次のとおりです。
「人間は先天的に「善」の兆を持って、生まれてきている。
なぜなら人は、誰に教えてもらうでもなく「憐れみ同情する心」、「悪いことを恥じる心」、「謙譲の心」、「善悪をわきまえる心」になる素養があるからです。
悪事を働くのは、周囲の環境など、外部の影響によるものです。
とはいえ、備えているの善の兆し、素養に過ぎないので、しっかり勉強や努力をして、本来の善の性質を延ばさなければならない。」
多少、解釈に異論があるかもしれませんが、大体こんな感じではとないでしょうか。
人間は生まれながらに、善の兆しを持っているということについては、こんな記事がありました。
0歳児にも思いやりの心 性善説を示唆? 京大グループ研究(産經新聞 平成24年6月13日)
赤ちゃんにも同情の心 「性善説」、実験で裏付け?中日新聞(平成24年6月13日)
京大と豊橋技術科学大の共同実験で、赤ちゃんに攻撃する図形と攻撃される図形を見せたところ、攻撃される図形に関心を寄せたというものです。 つまり、攻撃される、いじめられる図形に、孟子が言うところの「憐れむ心」を示したというものです。
なるほど、同情する心などは、生まれながらに備わっているのかもしれません。
しかしこれら善の兆しは、絶対ではありません。環境で崩れます。 もし絶対的に備わるものであれば、世の中に犯罪など起こらないでしょう。
家族や友人、教育、環境によって、人は変わります。
孟子もそのことは承知しているので、礼儀などの努力の重要性を説いています。
少なくとも、「言えばいつか分かってくれる。信じる。」といった類のものではありません。
「性悪説」 |
荀子の「性悪説」は、悪という文字により、誤解を受けやすいです。
「性悪説」を引用してみます。
人の性は悪なり。 其の善なる者は偽なり。 【翻訳】 (性悪篇) |
なお、書き下し文と訳は、こちらのページから引用しました。
古典名言集
「悪」というものは、いわゆる善悪の悪ではありません。
天使VS悪魔の構図ではありません。
ここで言う「悪」とは「人の持つ弱さ」というようなものです。
いっぱい食べたい、美しいものが好き、人より勝りたいなどです。
人は弱く、欲望に流されやすい。
欲望の赴くままにしていると、争いを起こしたり、人の道に外れたりしてしまいます。
人は易きに流れやすいのです。
だから、礼儀が大切で、しっかりとした教育が大切です。
人が善行を行なうのは、本能からではなく、そうした方がいいという教育を受け理解しているからです。
ダイエットを例に上げましょう。
美味しいものを食べるのは、幸せです。 SNSを見てみると、食べ物をアップしている人がどれほど多いことか。 食べるのは、この上ない娯楽です。
ところが、食欲のままに食べていると、ぶくぶくと太りますね。 やばい!痩せなきゃと思っていても、目の前に美味しそうなものが出てくると、ついつい手が出てしまう。
これが「悪の心」です。 誤解のないように繰り返すと、悪いということではありませんよ。 「弱い心」ですよ。
痩せなきゃと思っているけど、痩せない。 人間とは、そういう風に流れやすいのです。
しかし、スリムになりたいというのも願望です。 どうするか? プロポーションの良い人を目指し、食欲を抑えます。目の前の食べ物を我慢します。 またダイエット方法を調べ、実践しますね。
これが教育です。
食欲を抑え、目標のプロポーションを作ろう。 これが「性悪説」の根幹と言えます。
私はこの考え方の方が、理解しやすいです。
荀子は人は易きに流れやすいのだから、教育が大切だよと唱え、これが「性悪説」という形になったのでした。
安全管理は「性悪説」で。 |
仕事に置き換えてみましょう。
仕事では、どうしても成果が優先されます。 成果を上げるための作業が最も大事になります。
それ以外のことは、後回しになりがちです。 安全対策なども、それ以外のことに含まれます。
実際に作業を行う立場からすると、安全に関することは手間でしかありません。
私も現場で作業者と接していると、こういった様子が頻繁に見受けられます。
ヘルメットは夏になると蒸れるし、暑いのでかぶらない。
安全帯は着脱が面倒なので使わない。
少々の電気系統なら、素手で触る。
作業の邪魔なので、安全装置を外す。
少々の間なら問題ないので、クレーンで物を吊ったまま席を離れる。
たばこを吸いながら作業する。
おそらく何かしらのことは、経験あるのではないでしょうか。
なぜ安全対策が疎かになるかというと、手間がかかるからです。
仕事の妨げになるからです。
仕事はやらなければならないけれども、なるべく楽をしたいというようになります。
しかし安全は、楽して省いてよいものではありません。
後で、大きなしっぺ返しがきます。
残念ながら、事故を防ぐためには必要なことでも、作業者の利を優先されます。
これを安全対策をしっかり行うようにするには、やはり教育が重要です。
大切さを十分に理解させ、身につけさせ、実践させることです。
一度や二度教えただけではいけません。 すぐに元の状態に戻ります。
放っておくと危険な作業をやってしまうのだと理解し、教育を行なうことが安全上大切なことではないでしょうか。
荀子の別の言葉で、こんなのがあります。
人、生まれて欲あり。欲して得らざれば、則ち求むるなき能わず。 求めて度量分界なければ則ち争わざる能わず。 【翻訳】 (礼論篇) |
(「[新訳]荀子」モリヤ ヒロシ著 より引用。これ以降の引用も同じ。)
一定のけじめは、安全ルールなどですね。争いとは、事故と置き換えることができるでしょう。
ルールについて、荀子は後の法家にも影響を与えたように、重視しています。
けじめなどは、規律とも言えるでしょう。 規律は需要だとと思います。
しかし規律を優先するあまり、違反行為に対して厳罰化するだけでは、効果は薄いです。
ルール遵守に対して、ある程度の賞罰は必要でしょうが、作業者をガチガチに萎縮させるようなものは考えものです。
さらに荀子から引用します。
威厳猛癘にして人を仮道するを好まざれば、則ち下は畏恐して親しまず、周閉して竭くさず。
【翻訳】 (王制篇) |
必ず先ずその我に在る者を修正して、然る後に徐ろにその人に在る者を責むれば、刑罰より威れらる。
(富国篇) |
厳しいだけでは、ダメです。
まずは、事業者や管理者自身が、身を正し、規範と示すのが重要ですね。
最後に安全教育について、荀子の有名な言葉を紹介します。
学は已むべからず。青はこれを藍より取りて藍より青し。
(勧学篇) |
藍より青しというは、耳にしたことはあるのではないでしょうか。
教育を継続していくと、安全を率先する作業者が登場します。
この人が、作業場でしっかり安全対策、活動を行い、指導を行なう。
そしてまたその後継者が登場し、次に繋ぐ。
この循環を生むことが、安全教育の最終目的と言えそうです。
正直、「性悪説」と言いたかっただけなのではと思います。
それに、教育の重要性だけならば、「性善説」でも良さそうなとも思うのですけども。
安全管理において、作業者が不安全行動をとることは、事故防止のために避けたい。
作業をしていると、知らず知らずのうちに、不安全な状態に陥ることもある。
常に完璧な人はいません。
人の弱い所、不十分なところを認めた上で、改善を目指す。
「性悪説」には、こういった意図が含まれているように思います。
あと、安全管理を「性善説」というより「性悪説」で臨むと言う方が、厳しく管理するように思えてしまいます。 何より、タイトルにすると、インパクトがある!
こうしてタイトルに行き着いたのでした。
ちなみに、法令で定められている安全教育については、こちら。
安全衛生教育と有資格作業3 「現場のリーダー養成・職長教育」
その他、コラムなども安全教育に役に立ちそうなネタがありますよ。
目次からどうぞ。
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