○ショートストーリー”猫井川ニャンのHH白書”

鼠川、耳順にしてプロポーズを聞き入れる。

entry-319

こんなヒヤリハットがありましたので、対策とともにご紹介したいと思います。

index_arrow 第40話「鼠川、耳順にしてプロポーズを聞き入れる。」

目の前にペンキのついたハケが落ちてきたことをきっかけに、店の内装工事を手伝うことになった鼠川チュウ一郎。

その日帰宅すると、早速しまいこんでいた作業服を引っ張り出しました。

「またこれを着ることになるとはな。」

何となく処分できずに、クローゼットの奥にしまい込まれた作業服の上下。
退職直前まで現場にいたので、落ち切らない汚れもあちこちに残っています。
きっちりと付いた折り目が、しまい込まれ時間を感じさせます。

作業服に袖を通すと、

「よし、体型は変わっていないな。」

少しホッとして、ハンガーに掛けたのでした。

作業服の確認が終わると、次は道具を揃えます。

メジャーハンマー、ドライバー、ペンチなど、長年使い込んできた道具を1つずつ胴ベルトに収めていきます。

現役の時の準備完了。

鼠川は毎日をぼんやり過ごす男から、仕事の男へと様を変えたのでした。

翌日。

鼠川は、昨日準備した作業服や道具を持ち、自分の「現場」に向かっていきました。

「おはよう。今日からよろしく!」

店に到着すると、ごそごそと準備を始めている親父さんとラータに声をかけました。

「おはよう。えーっと、そご?そごうぉ?」

ラータは、どうも鼠川(そがわ)の名前は言いづらいようです。

「ソガワな。」

鼠川は、改めて自分の苗字を言います。

「そぐぁうぉ?」

やはり言いづらそうな、ラータ。
その隣で親父さんも「そごご」など、苦戦しています。

「ソ・ガ・ワ。うーん、言いづらいか。  
 そうだな、ワシの名前はチュウ一郎だから、チュウと言ってくれてもいいぞ。」

言いづらい苗字の代わりに、名前をもじって言ってくれるように伝えると、

「チュウね!  こっちのほうがいい!」

ラータも、言いやすそうです。 親父さんも、「チュウ。チュウ。」とにこやかに、鼠川の名前を繰り返していました。

「それじゃ、チュウよろしくね!」

3人は改めて、がっちりと握手し、作業を始めるのでした。

「ところで、店は何の料理屋さんなんだ?」

まずは、最初の段階からの確認が必要なようです。

「そうね。ここはスペイン料理よ。」

「なるほど。スペイン料理か。食べたことないな。」

「こんど、食べさせてあげる。」

ラータがそう言うと、親父さんもウインクしてきました。

「それは、楽しみだな。  で、どんなお店にしたいとかはあるのか?」

鼠川が、店作りについて聞いてみると、

「うーん、明るいお店にしたい。  でも、お金ないから。」

「明るい感じね。設計図、うーん何かこんな感じとかいう絵とかはあるのか?」

「あ、あるよ。見て見て!」

ラータがスケッチブックを引っ張り出し、鼠川に見せました。
そこには、店の内装の絵が色鮮やかに描かれていたのでした。

「ほう~。これはうまいな。  あんたが描いたのかい?きれいなもんだ。」

絵を褒められて、ラータはちょっと上機嫌です。

「でしょ?私は絵を描くのが好きなの。」

「なるほど、それで看板も描いていたんだな。
 看板作りは、任せるか。
 で、内装はこんな感じか。うーん、これじゃ素人には難しいんじゃないか。」

「そうなの。パパも頑張ってるけど、うまくいかなくて。」

ラータがそう言うと、親父さんも少ししょんぼりした様子。

「だろうな。うむむ。  この絵の通りはお金がかかるから、少しチェンジおーけー?」

なぜか、そこだけ英語の鼠川。
相手はスペイン人なのに。

しかしラータは、それを聞くと、

「おーけー。チュウができそうな感じでやって。」

笑顔で答えました。
親父さんも、指でOKサインを出しています。

「よし、それじゃ。知恵を絞るか。」

鼠川はやる気を出しました。

「ちえをしぼるって何?」

ラータが首をかしげながら聞くと、あたたと出鼻をくじかれしまう気がしたのでした。

さて、まずは設計図を作ることから!
そう思った鼠川は、胴ベルトから、メジャーを取り出し、寸法を測り始めました。

慣れた様子で室内の寸法を測り始めます。

ラータたちは何をするでもなく、見守るしかありません。

長い壁の長さを測っている時、延ばしたメジャーが折れ曲がる様子を見て、ラータが端を持ち、固定しました。

「お手伝いなら、いってね。」

「ああ、すまん。頼むよ。」

そう言うと、その後は手伝ってもらいながら、あちこちの長さを測っていったのでした。
親父さんは手持ち無沙汰のまま、何か手を出せないかとあたふたしていましたが、出番なく計測は終わりました。

寸法を測ったら、ラータの絵と照らし合わせ、大まかな設計図を書いていきます。
現場一筋の鼠川でしたが、自分で現場の図を書くこともあったので、多少は心得があるのです。

机に向かう、鼠川は真剣な眼差しで、線を引いていきます。

しばらくすると、だいたいの図が完成しました。 大雑把な平面図と、配置図です。

「こんな感じだと思うんだが、どうだろう?」

図を見せながら、2人に尋ねます。

ラータと親父さんは、その図を見ながら、

「すごいね!チュウ。よくわからないけど、私の絵のようにしてくれたのね。」

よく分からないものの、満足そうです。 親父さんも、満足そうです。

「まあ、分かりづらいかもな。
 でも、これでどんな材料が必要とかも考えられるからな。
 細かい所は、やりながら直していこう。」

続けて、

「あんたたちが今までやってきたのもあるから、それを元に材料を買い足して、やっていくか。
 ホームセンターで材料を買えば、安くなるしな。
 でも、電気工事とかキッチンはワシではできんから、たのまないとだ。
 昔の知り合いに頼めるから、少しは安くなると思うぞ。」

そう説明する鼠川。
ラータと親父さんにとって、無作為にやっていた仕事に活路が開いた心持ちでした。

それから、鼠川やラータたちは材料買い、仕事をやっていきました。

1日の仕事が終わると、親父さんに誘われ、一緒に酒を飲む日々。

毎日、鼠川と一緒に仕事するうちに、ラータも親父さんも鼠川という人間に心惹かれていったのでした。

作業を行っていたある日のこと。 その日は、床材の張り付けをしていました。

「こうやって、クギを打っていってくれ。  いいか、ラータ?」

「わかったわ。」

作業内容を説明すると、それぞれの仕事に向かいました。

トントントンと小気味よく、クギを打つ音が響きます。

「あ、間違えた。」

ラータがクギを打つ場所を間違え、さらに板材を割ってしまいました。

「うーん、これはもういいや。
 別のをつかお。」

ラータはクギが刺さった板を、脇に置くと、別の板にクギを打ち付けました。

しばらくすると、ラータは手持ちのクギがなくなったことに気づきました。

「チュウ。クギちょうだい。」

鼠川に言いました。

「ああ、持って行くよ。」

鼠川が答えると、

「いいよ。とりにいく。」

ラータが立ち上がり、歩き出した時でした。

急に勢いよく立ち上がったので、少し立ちくらみが起きました。
フラッと、前のめりに倒れそうになります。

しかし倒れた先には、先ほど脇においたクギが突き出た板があります。
このまま倒れれば、クギが刺さる。

やばい!

そう思った時でした。

ガシッと、自分の体が支えられたのを感じました。

顔を上げると、そこには汗をかいた鼠川の顔がありました。

「気をつけろよ。」

鼠川はそう言うと、ラータをしっかり立たせ、落ちていた木の板を片付けたのでした。

「クギはここに置いとくからな。」

そう言うと、鼠川はまた自分の仕事に戻って行きました。

ラータはドキドキが止まりません。
これは危機一髪だったことへの恐怖なのか、鼠川に対してのなのか、分かりません。

ラータの中で、何か説明のつかないもやもやが生まれたのでした。

仕事は鼠川主導で、どんどん進みます。

ラータは鼠川に対し、今までとは違うモヤモヤを心の中に抱えながら、作業を手伝っていきました。

鼠川が仕事をはじめてから、しばらくが経ちました。

もうほとんど店は完成に近づきました。

「ようやく、ここまで出来たな。
 あとは、ワシが手伝わなくても大丈夫かもな。」

久々の現場仕事に満足気な鼠川が言いました。

「チュウのおかげよ。ありがとう。
 最後まで、てつだってね。」

ラータもにこやかに言います。 親父さんも満足げです。

「はは、とりあえずワシの役目はやりきった感じだな。
 あと少しだな。  それじゃ、今日はこれで帰るよ!」

そう言うと、鼠川は仕事を終えて帰って行きました。

その日の夜。 鼠川のもとに、田舎から急な連絡がありました。
親戚が亡くなり、明日通夜があるとのこと。

お世話になった親戚ですので、明日の朝一番に出なければなりません。

明日は仕事を休もうと思ったのですが、あいにく連絡先を聞いていません。

「参ったな。明日の朝一番に出なければならないのに、連絡先が分からんな。
 仕方ない、店に伝言メモだけ残しておこう。
 作業は、ワシがいなくても大丈夫だろう。」

そう考え、明日の準備をして、眠りにつきました。

翌朝、まだ暗いうちに家を出ると、駅に行く前に店に向かいました

『親戚の通夜と葬儀のため、留守にします。あとは2人でも大丈夫だろうから、まかせた。がんばれ!』っと、これでいいかな。
 ・・・うーん、これだと2人には分からんかもしれんな。

 よしこうしよう。

 『とおくへいく。きょうからこれない。がんばれ! チュウ』っと、これなら分かるかな。」

こんなメモを残し、出発したのでした。

親戚の通夜と葬儀を終え、初七日を済ませた鼠川は、数日ぶりに帰ってきました。

やはり気になるのが、お店のこと。
家に帰る前に、まずは覗いていこうと向かいました。

「あれから何日も経ってるから、もう完成してるだろうな。」

そんなことを思いながら店に行くと、完成どころか、出発した時から全然変わっていません。

「どうしたんだ?親父さんが病気にでもなったのか?」

訝しみながら、店の中に入りました。

「いやーすまんすまん。急に来れなくなって。
 どうして、まだ完成してないんだ?」

鼠川がそう言って、中に入ると、

「チュウ!どこに行ってたの!なんで黙っていなくなったの!?」

と、ラータがかなりの剣幕で迫ってきました。

「えっ、えっ」

と、鼠川が戸惑っていると、

「『いなくなる』なんてメッセージ残して来なくなったから、心配したのよ!」

と、泣きながら怒鳴られたのでした。 親父さんも泣いています。

「ん、親戚の葬式で来れないと書いていただろう?」

と、答える鼠川。

「ちがう。そんなの書いてない。かいてたのこれ。」

とラータが、メモを差し出しました。

そのメモには、『とおくへいく。きょうからこれない。がんばれ! チュウ』と書かれていました。

改めて読んでみると、これじゃ失踪するともとれます。

これを読んで、焦った鼠川は、

「あああ、すまんかった。2人にも分かるように、簡単に書いたら、言葉足らずだった。申し訳ない。」

と、頭を下げたのでした。

「チュウは、どこにも行かない?」

ラータが尋ねます。

「ああ。どこも行かない。
 この店が完成させないとな。」

鼠川は答えます。

「じゃあ、店ができたらいなくなるの。」

「うーん。店ができたら、もうワシも必要なくなるしな。」

「いや、ずっといてほしい。」

「そりゃ、まあ、飯くらいは食いに来るが。」

「そうじゃなくて、ずっと一緒にいてほしい。」

「ん、どういう意味だそれは?」

「私と結婚して。」

思いもよらぬ、ラータの言葉に、言葉を失う鼠川。

「一緒に仕事してて、チュウのことが好きになっていった。
 チュウがいなくなって、寂しかった。  だから一緒にいて」

そう言って、頭を下げるラータ。
なぜか親父さんも一緒に頭を下げています。

(こ、これはプロポーズというやつか?親父さんもそれでいいのか?)

混乱する鼠川。

「ちょ、ちょっと待て。
 何でそうなるんだ?  ワシはもう60だぞ。
 あんたはまだ若いし、ワシみたいな年寄りをからかっても仕方ないだろう。」

うろたえながら、答えます。

「年は関係ない。
 チュウがいいの。
 チュウは私の事きらい?」

目をうるませるラータ。その背後で、親父さんも目をうるませて、見つめます。

(親父さん、正気か?)

親父さんの様子に、ますます混乱を深めていきます。

「ちょっと、親父さんはいいのか?
 ワシは親父さんより年上だぞ。
 今は頭が混乱してるだけだから、頭を冷やせ。」

そう言うと、親父さんが答えました。

「チュウがいなくなってから、ラータとあちこち探して、話をした。
 それで、ラータの気持ちを聞いた。
 私もチュウが好きだ。
   だから、チュウが家族になってくれるなら嬉しい。」

考えこむ鼠川。

(ワシはもう還暦の年寄りだ。
 しかし、ここしばらく、この2人と過ごして、楽しかった。
 ラータにも、ドキドキする気持ちも残っている。

 この親子は好きだ。

 できるなら、これからも付き合いをしていきたい。

 そうか。  ワシは心に従える歳なのだ。

 ならば、この気持に従うもよしかもな。)

何時間にも感じられる沈黙の後、鼠川は口を開きました。

「・・・気持ちは分かった。
 ワシも2人が好きだから、嬉しく思う。
 ただ、今すぐは気持ちがごちゃごちゃしてる。
 この店を完成させ、オープンするまで時間がある。
 それまで、しっかりお互いに気持ちを確かめてから、改めて考えたいがいいか?。」

鼠川は、気持ちを伝えます。

「チュウの言葉難しい。それはオッケーということ?」

と、ラータが聞きます。

「うむ。オッケー。」

そういった瞬間、 ラータが抱きついてきました。
親父さんも抱きついてきます。

「ちょ、ちょと、まずは店を完成させることからな。」

あたふたしてしまうのでした。

鼠川チュウ一郎。
齢60、世間でいうところの耳順。
人の言葉を素直に聞くことができる境地。

この年にして、鼠川は、四半世紀以上離れた娘の言葉を、聞き入れたのでした。」

今回は長くなってしまいました。

なぜか、鼠川にプロポーズするラータ。 仕事場のかっこよさもあったのでしょうが、転倒しそうになった時の吊り橋効果もあったのではと思われます。

60過ぎだけど、内装の手伝いをしていたら、嫁ができた。

全く世の中何が起こるか分かりません。

index_arrow ヒヤリ・ハットの補足と解説

今回のヒヤリ・ハットは、転倒です。

つまづいたり、滑ったりと転倒は最も多い事故です。 多くの場合は、痛~で済みますが、場合によっては重症になったり、死亡したりもあるのです。

ちょっと怖いですよね。

今回の話では、転ぶ先に、クギが付いた板がありました。
もし支えられず、転んでいたら、突き刺さっていたかもしれません。

作業場の整理整頓は、こういった別の事故を引き起こすこともあるので、注意が必要です。

それでは、今回は本文が長くなったので、解説はコンパクトにして、ヒヤリ・ハットをまとめます。

ヒヤリハット 立ちくらみで転倒しそうになった先に、クギつきの板が放置されていた。
対策 1.材料や工具などは、放置せず、特定の箇所にまとめる。
2.立ち上がる時は、ゆっくりと行い、立ちくらみを防ぐ。

年をとってくると、急に立ち上がると頭がくらっとすることもあります。
何気ない動作の中にも、怪我につながるものがあるので、注意する必要がありますね。

ちなみに、「耳順」とは論語に出てくる用語で、60歳のことです。
「人の言うことを逆らわず、素直に聞くことができる」年齢のことを指します。
鼠川は思いもよらぬ、申し出を聞き入れたのでした。

さて、次回は鼠川の結婚シリーズ完結編です。
今明かされる、エスパニョールの謎とは!?

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